松岳寺について
曹洞宗 龍谷山 松岳寺(そうとうしゅう りゅうこくざん しょうがくじ)はトップページでも記したように、茨城県常総市にある曹洞宗のお寺です。寛永元年(1624年)3月、大庄屋池田重良平が結城市乗国寺11世民安祖養大和尚を拝請し開創しました。開基は沖新田開拓者池田沖右衛門。
数度の水害に遭遇し、寺誌、過去帳、記録書類流出してしまい、また、昭和30年より同54年まで住職がいない時代が続きました。
本山
- 永平寺(福井県)
- 總持寺(横浜市)
本尊
本尊十一面観世音菩薩
曹洞宗とは
曹洞宗には上記のように2つの本山があります。
福井県の永平寺(高祖道元禅師開山)
神奈川県の總持寺(太祖瑩山禅師開山)
いずれも両大本山で、曹洞宗の根本道場であり、信仰のみなもとです。
この両大本山を中心に、曹洞宗は全国に現在1万5千カ寺、約1千万人の檀信徒により外護されている、わが国最大の仏教宗派です。
読誦されている経典は、修証義、般若心経、観音経などをお読みいたします。
曹洞宗の名称
禅の教えは、達磨大師によって中国に伝えられましたが、その教えを継いだ6代目の慧能禅師の後に大いに発展します。
「曹洞宗」の名称には色々な説があります。今日では慧能(えのう)禅師が教えを説いた「曹溪」という地名と良价(りょうかい)禅師が同じく教えを説いた「洞山」という地名の頭文字をとって「曹洞宗」になったとされています。
わが国では、如浄(にょじょう)禅師から道元禅師によって伝えられ、瑩山禅師の時代に初めて公称されるようになりました。
日本曹洞宗の系譜
道元禅師、瑩山禅師の別称
道元禅師…仏性伝東国師・承陽大師
曹洞宗を開かれた道元禅師は、1200年(正治二年)1月26日京都でお生まれになりました。父は時の内大臣久我通親、母は摂政、藤原基房の娘です。
禅師は高貴な家庭に生まれた訳ですが、3歳の時、父が他界し、8歳の年には母も亡くしました。 禅師は、母の死によって世の無常を深く感じ、13歳の春、真実の道を求めて比叡山に登り公円座主について得度し、身を仏門の修行に投じました。
比叡山で修行中、禅師は大きな疑問にぶつかります。
「本来本法性、天然自性身、什麼としてか三世の諸仏は発心し成道するや」(人は生まれながらにして仏性を持っていると、何故に仏道修行し、道を求めるのか)その解決を求め比叡山を下り、京都の建仁寺に栄西禅師の門をたたきました。そこで、禅師は栄西禅師の高弟、明全和尚にめぐり合い、24歳の春、明全和尚と共に仏の道をきわめるべく中国に渡ったのです。
中国では、5年の長きにわたり諸寺を歴訪して修行を重ねられましたが、なかなか禅師が求めていた教えを見つけることができませんでした。やがて3年目の5月、天童山の如浄禅師に相見した時、禅師が長年探し求めていた正法の教えとする師に巡り会う事ができました。 ある日のことです。坐禅堂で修行していると、如浄禅師が修行僧に向かって「参禅は心身脱落なるべし、只管に打睡して作麼」と叱りました。この時、禅師は「心身脱落」によって開眼し、坐禅をすべての修行とするさとりに目覚められたのです。
禅師は28歳の秋、如浄禅師の教えを受け継ぎ、禅の奥義をきわめ帰国致します。 帰国後は「普勧坐禅儀」を著し、禅の道を示され、34歳で宇治の興聖寺を建立し、坐禅道場を開いて道を求めている人々に正法(禅の教え)を広められました。 しかし、名声が出るに伴い他宗から圧迫が起こり44歳の年、越前に移り山中に傘松峰大仏寺を建立しました。のちに吉祥山永平寺と改称されます。
建長5年(1253年)7月、病に倒れた禅師は後を弟子の懐弉禅師に託して京都に帰り、療養に専念しましたが、そのかいもなく、9月29日ついに54歳の生涯を終えられました。 禅師は「正法眼蔵」95巻、「永平大清規」2巻、「永平広録」「学道用心集」「宝慶記」「傘松道詠」など多数の著述を残し、禅の世界をあきらかに示したのです。
瑩山禅師…弘徳圓明国師・常済大師
道元禅師の教えを受け継いだ4代目の瑩山禅師は文永5年(1268年)11月21日、越前(現在の武生市)にお生まれになりました。
父は豪族瓜生氏で、両親とも非常に信心深い家庭でした。特に母は観音さまを厚く信仰されておりました。その観音さまに祈願をこめて、誕生されたのが禅師といわれています。
この母の信仰に感化された禅師は8歳にして永平寺に登り3代徹通禅師のお弟子となることをゆるされ沙弥(しゃみ)となります。永平寺での修行は子供ながらにも厳しく鍛えられました。13歳の春、2代目孤雲懐弉禅師について得度を受け、徹通禅師に師事いたします。
18歳の時、諸国行脚(しょこくあんぎゃ)修行の旅に出ます。特に京都においては、何人かの名僧、(京都万寿の宝覚、白雲の慧暁等、)知識を訪ねて(比叡山~紀州由良興國寺法燈国師等)教えを受け修行を重ねました。
21歳の秋、永平寺の徹通禅師のもとに戻られた禅師は、その翌年、徹通禅師のお共をして永平寺に別れをつげ金沢の大乗寺へお移りになられました。 その後、修行に励むこと7年、27歳にして禅師は「平常心是道」(へいじょうしんこれどう)の公案(こうあん)を聞き、ついに教えを体得、翌28歳の正月14日、介祖の室に入って釈尊54世の大法を嗣続、道元禅師自縫の法衣を伝授せられ、徹通禅師の教えを継がれました。
禅師は終生、多くの寺院を開き、多数の弟子を育成されたのです。28歳の秋、徳島県に城満寺をお開きになり、道元禅師の教えを広められました。32歳の頃、大乗寺に帰り徹通禅師を助けて布教活動に専念するうち35歳で、大乗寺2世となられます。 45歳で能登に永光寺(ようこうじ)を開き、いよいよその名声があがりました。
54歳の4月、石川県羽咋市(はくいし)近くの諸嶽寺(しゅがくじ)定賢律師(じょうけんりっし)の願いを受け入れ、その寺に入り、総持寺(そうじじ)と改めたのです。翌年に、後醍醐天皇は「十種の勅問」をお寄せになり、その力をためされたのですが、瑩山禅師は十問すべてに、すばらしいお答えをなさり天皇は感心あそばされ「曹洞宗出世道場」という額と紫衣を賜りました。この時から総持寺も大本山となり、曹洞宗という名称も初めて使われるようになったのです。
その後、永光寺にもどられた禅師は正中2年(1325年)の夏、病床に倒れ9月29日、58歳の生涯を閉じられました。 御書に「伝光録」5巻、「坐禅用心記」「瑩山清規」「三根坐禅説」「信心銘然拈提」「十種疑問」 「秘密正法眼蔵」「洞谷記」「瑩山和尚語録」などがあります。