松岳寺

よくあるご質問

お寺や仏教、法事や法要などについて、皆様が疑問に思っていらっしゃることにお答えしてまいります。
代表的なよくある質問と回答を挙げておりますが、別途ご質問も受け付けております。下記に挙げられてないような疑問などをお持ちの方はどうぞご利用ください。

一般的には、仏具店で求められる方が多いと思いますが、現在は豊富な種類がございます。
長い百八数珠から片手にかける短い数珠や腕輪(ブレスレット)タイプまで、ご法事やお通夜、葬儀等の場合は片手の数珠が多いです。多少、宗派によって形(房)が異なっている場合もありますので、曹洞宗、もしくは禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)と申してお求めになる方がよろしいでしょう。
男性の方、女性の方用と実の大きさ、石の大きさや色の違いがございます。高価な物を求めてもお仏壇に置きっ放しでは困ります。毎朝お線香を上げる時等、左手に掛け、手を合わせるようにしたいものです。
数珠の起源や、いわれには、色々な説がございます。念珠ともいわれるように、仏法僧の三宝を念じ、念仏称名する場合、数とりにつまぐる為で、その数も色々ありますが、百八個の珠は百八煩悩を除く為だともいわれております。
釈尊在世の時、難陀国の王が、仏の教えを受けて、むくろじの実で、沢山の数珠を作らせ、これを親戚縁者に分かち与えて善業をつむことをすすめ、王自身も、これを常に用いて念誦し、軍旅の時も、これを離さず、三宝を唱念したとされています。
仏教徒は、これを持つことによって、三宝に帰依し、善業を修する思いを忘れず、怠らないためです。その心得で念珠を持てば、おのずから諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意の諸仏の教えにかなうようになります。
決まっていません。1本でよろしいと思います。法要によって寺院では迎え線香と云って、あらかじめ2本建ててある中央へ建てると3本になることもありますが、1本でよろしいでしょう。
ある檀家さん宅でのことですが、線香が臭いと言うお方がありましたが、現在では数多くお線香の種類がございます、又香りを楽しむアロマテラピー効果に気分が落ち着くということもございます。多少お値段はかかってもご先祖さまに召し上がって頂く香食として良い香りのお線香を求められてはいかがでしょう。
曹洞宗では2回とされております。
最初につまんだ香を額のところへ頂いて香炉にくべ、次につまんだ香は頂かないで香炉にくべる、つまり2回です。「初香を拈じて、従香を拈ぜず」と言い伝えられております。
お香、お花、お灯明、お水、食物、を上げるのを五供といっております。
お香の香りは空中に万遍なく行きわたる、あたかもみ仏の大慈悲心が万遍なく行きわたるのと同じように。良い香りは心を清め信心を深めるもので、仏さまのお喜びになるものであります。
お花は、この世の中の最も美しいものでありますから、み仏の前にお供えして、仏さまの位置をお飾り申すのです。これを「報地を荘厳す」と云ってあります。いきいきしたお花を上げた時の気持ちは何ともいえないものであります。
お灯明は、仏の慈悲の光りに通ずるもので、闇の世界を照らして頂く含みをもっているのであります。
お水は、それ自体が清浄、供える人の心が清浄、お受け下さる仏さまの心が清浄、これを三輪清浄ともうしますから結構なお供えものであります。
食べ物、おいしいものは喜びの浄土を造り出すものであります。おいしいものをお供えして仏さまに喜んで頂くと共に私どももお相伴して互いに喜ぶのであります。
ご先祖は私どもの命の元、ご先祖あって我々があるのですから、大事に追善供養するのは仏教徒として当然の事であります。同時に、普段お仏壇の前で読誦(経を読む事)されていても、家族親近者皆で読誦し追善供養いたすのは、亡きご先祖にかわりご修行をさせて頂く(仏道を行ずる)ということでございます。
お経の声は法の響き、み仏の声でありますから、この神聖な読経は最も良いご供養であります。
薬の調合は知らなくても信じて飲めば効き目があるように、読経という行為が無限の功徳を含んでいます。
個人の霊が、次の生を受けるのに、時があると説かれています。
十王経には、
「初七日」秦広王(不動明王)によって書類審査を受ける。ここには獄録と言うエンマ(閻魔)帳があり、生前の悪事が既に記入されている。
「二七日」初江王(お釈迦様)によって裁かれる。ここで三途の川を渡る。川の辺に居る葬頭河(そうずか)と呼ばれる婆さんによって、衣類をはぎ取られる。川には橋もあるが、悪いことをした者には橋が糸のように細く見えて渡れず川に落ちてしまう。
「三七日」宋帝王(文殊菩薩)によって裁かれる。ここには猫と蛇がいて、邪淫の有無を調べ猫にいじめられ蛇にいじめられる。
「四七日」五官王(普賢菩薩)によって裁かれる。ここには秤があって生前の罪の重さを調べられ、重い軽いによって振り分けられる。
「五七日」閻魔王(地蔵菩薩)がみずから裁く。この場には浄波璃の鏡があり生前の悪事をすべて写し出される。
「六七日」変生王(弥勒菩薩)が三つの道の何れかを進むように示すが、罪業ある者は悪道に走り入って銅の煮え湯をあびてしまう。
「七七日」泰山王(薬師如来)によって判決が下される。これまでの未決期間を中陰と言う。 尚、裁判の日に残された家族の者が死者の為に追善供養(回向)をすると死者の罪が軽くなると信じられている。(十王経)

仏教では、人は亡くなってからその人の生前の業、行いによって六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人界、天上、の六つ)のいずれかに生まれ変わると説いております。
人はこの世に生を受けてから亡くなるまで、たった一人で生きているわけでは在りませんから、たとえ悪い事はしていないつもりでも、自分も知らないうちに、他人に迷惑をかけたり苦しませたりしていることも度々あるでしょう。ましてや凡夫である私達は、煩悩とともに毎日を生きています。
亡くなったあと人の命は絶えても、中有といって、なお四十九日の間は次の生が定まらず、現世と来世の間をさ迷い、そこで判定を受けて六道のいずれかに行くのです。
それでは、業の深い凡夫は決して救われることはないのでしょうか。仏教ではこの四十九日の間にあとに残されたものが、心のこもった追善供養を行えば、亡くなった人はその供養のおかげで、地獄におちず往生できるといい、また供養を行ったものも仏の功徳を頂くことができると説いております。
お釈迦さまは旅の途中で、おなかを痛められたので、沙羅林の中に入っておやすみになりました。お弟子たちが消化のよいようにと思って、食べ物をすってお団子にこしらえ枕もとに置きました、しかし遂にこれを召し上がらないでおかくれになったのでお団子が枕もとに遺ったのです。その遺風が伝わり伝わって今日に及びました。
お塔婆の起源はお釈迦さまの時から始まっております。塔は仏の身体を型どられたもので、お釈迦さまは、塔を建てて供養するのが最も功徳があると教えられています。
現在は木製のものが塔婆として建てられております。今は亡き先祖や故人に対して宛てたお便りと解釈されてよろしいかと思います。一周忌、三回忌等の節目に故人の追善供養を出来る有難さ、又供養する側も仏さまの功徳を頂戴させていただく事のできる有難さが大事なことだと思います。
「三は数の少数(数の一段階)、七は天の紀数(無限数、神聖数)」とあります。年回法事を三と七の数に当てはめて行うのには亡き仏へ対する温かい心からであります。礼記(らいき) に「祭りは歳毎にしばしばやるのには煩瑣(はんさ)になる、そうかといって五年十年と間隔を置くのは疎略である」と云っております。三七に当る歳に法事を営むのがよいとされているのです。
お盆の起源はインドであり、中国を経て、日本に伝えられました。日本では、聖武天皇の天平五年(733年)七月十五日に、宮中でうらぼん法要が行われて以来、長きにわたりお盆の行事が続いております。
盆とは、盂蘭盆(うらぼん)を略したので、インドの言葉でウランバナといい、その意味は「倒懸(とうけん)の苦しみ」というのであります。倒懸とは、人間の足を縛って、さかさまに懸けることで、苦しみの最大なことに喩えた言葉であります。その縛られている縄をほどいて、苦しみを救い、仏の慈悲心による救済をウランバナと言いました。
その起源は釈尊の時代、十大弟子の目連尊者が、亡母の苦患を救ったという因縁に基づくものとして伝えられる「仏説盂蘭盆経」の説くところによりますと、孝心深き目連尊者が、神通力をもって、亡き父母を済度して哺乳の慈恩に酬いんものと、あらゆる世界を観察して見ると、その母は餓鬼の世界に生を受け、飢えと渇きとの為に、骨と皮ばかりになって苦しんでいるのを発見し、自ら餓鬼道に赴いて、母に食べ物を与えましたが食物はたちまち炎々たる焔と化して食べることが出来ません。そこでお釈迦様に哀願すると、「汝の母は、生前の罪障深きに依って、餓鬼道の苦果を招いた、汝の一人の力ではどうすることも出来ない。然し、幸いにも七月十五日は、教団の僧たちが、三ケ月の禁足修行の夏安居を終わって、各自に罪過を告白し、懺悔が行われる日であるから、この心から清らかな僧侶を供養したならば、衆僧威神の力によって餓鬼道の苦患を脱れることが出来ようぞ」と教えられ、目連尊者が施主となり供養を行ったところ、亡母が餓鬼道の苦患から救われたというのであります。
ここで我々が、よく考えてみたいことは、それは、清らかな心、まことの心からの供養が最も大事であるという教えであります。
仏教にいう彼岸とは、幸せな生活が実現したところです。本当の幸せを得た人の心境でもあります。現在日本では春彼岸、秋彼岸と1週間づつございますが、一般的にご先祖さまのお墓参りをされている事でしょう。現実の此の岸、理想の彼の岸、決して遠い向こうの岸ではありません。理想である幸せの彼岸へ到達するには、どうしたらよいでしょうか。
お釈迦様は、我々が彼岸へ渡るために六つの教えを説いております。

第一に、布施(ふせ)。布施とは、欲深くむさぼらないことであります。他人はどうでもよい、自分だけ楽をしよう、豊な暮らしをしよう、ひとりで儲けようと、非道なことをしてまでも、金銭財物をむさぼって、たとえそれが成功したとしても、その人が必ずしも、本当の幸せを得たとはいえません。むしろ他の為に、これを分かち与えて、持ちつもたれつ助け合い、われひとと共に喜ぶところに、真の幸せがあるとの教えです。

第二に、自戒(じかい)。自戒とは、仏の戒めを持ちまもることであります。現代におきかえますと、(1)生命を奪ってはいけない。(2)与えられないものを、取ってはいけない。(3)淫らな行為(おこない)をしてはいけない。(4)うそをついてはいけない。(5)他に迷惑をかけ、自らの生活をやぶるような、酒を飲んではいけない。というのが、社会生活に安寧と福祉をもたらす基本の戒律であります。ことに人命を尊重することは幸福と平和の根本精神であります。

第三に、忍耐(にんたい)。忍耐とは、仏陀(ほとけ)を信じ、仏陀の教えに随って、幸福の彼岸を目指して進む者は、己の貪(むさぼ)りの心を制し、つつましい生活と、他からの誘惑に打ち克ち、苦難を耐え忍ぶ強固な意志を持つということです。

第四に、精進(しょうじん)。何事をなすにも、精進努力が大切であります。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず」とは、徳川家康の家訓であります。
牛の歩みのように遅くとも、勤め怠らない努力の継続が精進であります。精進の裏づけは忍耐であります。

第五に、禅定(ぜんじょう)。心を常に落ち着けて、仕事に専念することであります。あわてたり、気が散っては専念にはなりません。朝に晩に仏前に礼拝し、心を落ち着ける習慣をつけることです。

第六に、智慧(ちえ)。この智慧は、仏の智慧です。真の幸福を発見する智慧であります。
それはどこまでも慈悲を裏づけした智慧であります。悪がしこい才知ではありません。
この仏の智慧は、誰でも生まれながらに持っています。

以上、六つの教えによって、誰もが、幸福の彼岸へ到達することが出来ると釈尊は教えられました。私どもは、仏の教えを聞いて信仰を深め、善行につとめ、父母祖先と社会のご恩に感謝し、自他の幸福と、世界の平和を祈ることにつとめたいものです。
お墓の形は色々な型が出てまいりました。10年程前までは和型が多かったのですが、最近は洋型も大変多くなりました。また、墓相を研究して建てられる方もいらっしゃいます。
和型でなければならないとか、洋型でなければならないとかはありません。墓所は御仏壇と同じように私たちの心のより所であります。せっかく立派なお墓をたてられても、より所にならなくては何にもなりません。ご家族皆さんで良く相談して建てられることをすすめます。
深刻なお悩みだと思います。
寺院墓地にお墓がある場合は、寺院は宗教法人でありますので土地は永代使用という名目で個人の登記はされていません。土地をお貸ししております。
生存中に代表者である住職と良くご相談された方がよろしいと思います。お寺によっては、無縁墓地の合祀や先祖の永代供養等を行っていると思います。墓地はどうなるのか、合祀の費用とか、永代供養料とか、寺院住職と自分が生きている間に、ご相談される事をおすすめ致します。
公営墓地(霊園)にお墓がある場合は、管理者に良く相談された方がよろしいと思います。
多分、墓地は合祀というかたちになると思いますが、やはり、生前に確認し、近しい方にお願いするか、公正役人、弁護士等に遺言として残される方がよろしいと思います。
管理者の立場からですと、住所不明や、管理費が滞ったからと云ってすぐに墓地を撤去いたす事はできません。しかるべき手続きや広告掲載等時間や費用がかかります。あくまでも、自分が生きている間にご相談したほうがよろしいと思います。